B’z
1987年、音楽制作会社ビーイングに所属し、浜田麻里やTM NETWORKなどのツアーサポートやスタジオ・ミュージシャンとして活動していたギタリストの松本が、「自らの音楽を表現できるバンドを創る」という構想のもと、バンド結成へ向けた活動を開始。その間、あるボーカリストとバンドを組むことを音楽雑誌で公表したが、そのボーカリストとデビューすることはなかった。
1988年5月、ボーカリストを探していた松本は、ビーイングの社長で音楽プロデューサーでもあった長戸大幸から1本のデモテープを渡される。そのデモテープは当時Being音楽振興会(後のBeing Music School)に所属していた稲葉が、T-ボーン・ウォーカーの「T-BORN SHUFFLE」、レッド・ツェッペリンの「YOU SHOOK ME」、ビリー・ジョエルの「Honesty」を歌ったものが録音されていた。長戸はB'z結成の2、3年前から「稲葉を何とかしたい、早くデビューさせたい」と事あるごとに言い続けていたという。こうして長戸を介して、2人は会う約束を交わす。しかし、この時点で松本は、「デモも聞いたし、写真も見たし、(稲葉と会う前から)自分は心が決まっていた」「後は『いい人』であってくれと願っていた」と語っている。
翌日、「SOUND JOKER」という小さなスタジオで初顔合わせした2人は軽く会話を交わした後、ビートルズの「Let It Be」、「Oh! Darling」の2曲をセッションする。しかし、機材の故障により結局その日は2曲しかセッションが出来ず、その場はお開きとなった。後日再び会った時には、何故か既にデビューへ向けての活動が始まっていたという。その後2人はユニットB'zを結成、1988年9月21日にシングル「だからその手を離して」、アルバム『B'z』の同時リリースでデビューした。
2人が初めて出会ってB'z結成・楽曲制作・デビューに至るまでは、約4ヶ月という短い期間であった。B'z結成時はお互い(特に稲葉)の合意が形成されないままデビューへの話が進んだらしく、稲葉は結成当時について「振り返ってみれば、これまで松本さんから『一緒にバンドをやろう!』とはっきり口にして言われたことは一度もない」とインタビューやライブMCで語っている。ただし1993年に敢行されたライブツアー『LIVE-GYM '93 "RUN"』でのMCでこのエピソードが語られたときは、「そういえば言っていないな」ということで、稲葉が冗談めかしながら「一緒にやろう!」と言ったこともある。
結成当時の音楽業界では、「新人はアルバムを3枚リリースするまでにヒット作品を作れなければ見切りをつけられる」という風習があった。そのため、松本はデビュー時から明確なビジョンを持って制作に当たっており、稲葉と初対面した際に「3年以内に(当時一番売れていた音楽雑誌である)『ギターブック/Gb』の表紙を飾る」「3年以内に『オリコン』の(1位 - 50位までが掲載されている)左ページに載る」といった「三ヵ年計画」を力説していたという。
初期のB'zのプロデューサーは中島正雄である。B'zがブレイクした後も中島はスーパーバイザーという肩書きで指揮していた。
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